Minecraftとタートルと僕

PCゲームMinecraftのMOD「ComputerCraft」の情報を集めたニッチなブログです。

こちらのページは更新が滞っており、情報が古くなりつつあります。新しいCC情報サイトをはじめましたので、もしよければご参照ください。今後ともよろしくお願い申し上げます。

「百億のマインクラフトと千億のタートル」(https://hevo2.hatenablog.com/)

今年もComputerCraftバレンタインイベントの季節がやってきました

はじめに

ComputerCraftで、バレンタインイベントがあったのご存知ですか?

タートルが移動するたびに、ハートのエフェクトをばら撒いてくれます。ラブアンドピース!

おまけ

教育用ソフトウェアに広告が許されるか

はじめに

さっさとマイクラ、ComputerCraft関係の記事を書け?

はい、ご指摘ごもっとも。

とはいえ、最近はプログラミング教育についても興味があります。 自分の考えの整理も兼ねて文章を書いたので、ここで公開させてくださいな。

なお、ひたすら長いので、「まとめ」だけ読んでいただいてもかまいません。

今回の記事の元ねたはこちら。

  • 元ねた記事のまとめ(僕の独断と偏見によるもので異論は認める)
    • いろいろ問題となっている武雄市のタブレットを用いた教育ですが、子どもが使っている掛け算練習ソフトを見たら画面の片隅にバナー広告が入っているじゃない。これって大丈夫なの?
    • 一概に広告に反対するわけではないけれど、武雄市は何も考えてなさそう、まずいでしょう。

武雄市の教育に対するネット上の言論について

武雄市のタブレット教育について、そのやり方や問題点の洗い出しなどネット上では議論が活発に行われています。 一方で、話題の樋渡氏が関わっているだけあって「これがダメ。やはり樋渡氏は無能」という中傷に留まっている言論もまた多く見受けられます*1

しかし教育関係者、特に、最終的に自治体内全て学校生徒にICT機器を配備することを目指す自治体にとって、根本的な過ちも含めて、参考になる問題点を続々と出してくれる武雄市の現状はありがたいのではないでしょうか*2

現在の武雄市の状況は、他の自治体でも繰り返される可能性があります。 人事(ひとごと)のように悪口にとどまるのではなく、明日の我が身と考えておくべきでしょう*3

武雄市の事例を悪例として考える

(2/9 12:05, ご指摘を受けてこの章を修正しました)

武雄市のバナー広告問題の根本的原因は、「総合的な準備不足」にあると思います。

  • 追記4
    • さすがに武雄市内全校で広告付きソフトの導入を推奨しているとは考えづらいので(いえ、本気でそうでないことを願ってますがでもありえる)、 学校の先生レベルで「授業発表用に、新しい授業作ろう。いいソフトがないな、よしインターネットからダウンロードして使おう」という経緯があったのではないかと想像しています。
    • もしそうならば、学校の先生が授業作りに使えるソフトの統制が利いていないことに、あるいは授業作り用のマニュアルが全く整備されていないことになります。恐ろしい。トップの怠慢のツケが全て現場の先生とその生徒に来ているわけです。
    • これを反例と考えると、先生の要望に答えられるように推奨するソフトウェアの数と種類を増やすとか、あらかじめ授業作りのマニュアルを整備しておくとか、いろいろと準備が必要であることがわかります。

準備するには、時間、予算、人材、その他様々な資源が必要です。

まず武雄市の例では、トップの強引さに引きずられて準備する時間が圧倒的に足りなかった。これは致命的です。

ソフトウェアと教材の開発については、業者と協力体制をとっていたようですから、開発用の予算がソフトウェアの種類と質に如実に効いてくるでしょう。 先の事例で先生がネットからダウンロードした広告付きアプリを授業に使うくらいですから、種類や質について不満があったに違いありません。

またそれらソフトを使いこなす人材の育成もスムーズに行えたのでしょうか。時間の不足も考えると正直疑問です。

そして、先生用の授業作りのマニュアルを整備するためには、予算と時間、そして何より教育現場における経験と検証作業の繰り返しが必要になります。

  • 追記5
    • しかしTwitterで、「武雄市は小学校低学年のモデル校を作らず検証もせずにタブレット導入した」というご指摘もありました。日本で初めてという評判が欲しいがためのごり押しだったとも。
    • だとしたら、かなり(頭が)おかしい事例ですよね。
    • 本来ならば必要な検証作業を意図的に省略したことで、精緻なマニュアルの整備ができず、これだけ問題が噴出しているのですから。

しかし日本の教育予算を考えると

準備不足を「予算」と「時間」と「人材」と「検証作業」の不足と考えるとき、全校生徒一律配備を考える他の自治体においてもっとも不足しやすいものは何でしょうか。

僕は、予算だと思います。(たとえば、検証作業を省略するような軽率な自治体が武雄市以外にありえない)

今後必要となるソフトウェアと教材の全てを開発するのは、予算が潤沢でない小さな自治体には難しい話で、いかに効率よく質の良い教材を用意するのかを考えなくてはなりません。

現実的に考えるならば、場合によっては教材を開発した企業の広告もある程度容認し、子どもには広告に対する知識と態度を教育するという方向で妥協する必要があるかもしれません。

ただしあくまで強調したいのは、教育用ソフトウェアは広告無しが原則であるということです。

広告には色々な問題がつきまといます。あくまで妥協の産物としての容認であり、導入にも細心の注意を計らなくてはなりません。

その意味で、武雄市のなし崩し的で考えなしな広告導入は論外ですね。 すぐにとりやめ、なぜ使ってしまったのかを分析し、今後おなじようなことを防ぐためのマニュアルを作るべきでしょう。

少なくとも、広告導入の可否が決着つくまで、そして仮に可となっても厳しいガイドラインを整備終えるまで授業の中に広告を持ち込むべきではありません。

以上より、「教育用ソフトウェアに広告が許されるか」という疑問に対する僕の意見は、

教育する側が広告内容をコントロール可能であり、子どもに対して広告の仕組みと望ましい態度を教えることができるならば、教育予算との兼ね合いで広告付き教育ソフトウェアを部分的に導入するのはアリ*4

となります。

一般の広告付きソフトをネットからダウンロードして授業で使えるようにしろという話ではありませんのでご注意ください。一応、念のため。

ICT教育で何を教えるべきか

一方で、広告についての知識と態度を教育することは、かなり重要なことではないかと考えています。

「学校で学んだことは社会に出ても役に立たない」という学校教育に対する批判をよく聞きます。

皆さんは、使っているソフトウェアのどれだけを購入して使っています?  特にスマホアプリは、広告付き無料ソフトウェアを使うことが多いのではないですか?

そうした現状を考えると、子どものうちから広告に対する態度を教育しておくことが重要ではないでしょうか。

今使っているソフトウェアはどのくらいの人数でどのくらいの期間かけて作ったものなのか。 そしてその対価として学校はいくら払ったのか。 あるいはバナー広告というビジネスモデルの概略説明をし、広告に対してどのような態度で接するべきなのか*5などなど。

そもそも反射的な広告否定はどうかとも思います。

件の記事のはてなブックマークコメントを見て思うのですが、そもそも広告に対して嫌悪感を抱く人が一定割合いるのではないでしょうか*6

ソフトウェア開発の労力を過小評価しすぎです。ソフトウェア・教材を労力無しに簡単お手軽に作ることができると思っていませんか?

僕は、そういう人にこそプログラミングを学んで欲しいと思っています。 対価を求めない(完全)無料ソフトが、どれだけありがたく貴重なものかが実感できるはずです。

ソフトウェアはれっきとしたプロダクトであり、利用に際して対価を払うのが当たり前なんです。 だからこそ(完全)無料のソフトウェアやボランティアのプログラマが貴重で尊いのではないですか。

ソフトウェアは(完全)無料が当たり前と考える大人は今時少ないとは思いますが、単価が下がりすぎるのは互いに不幸でしょう。

職業プログラマーは霞を食べて生きているわけではないんですよ(涙)

まとめ

  • 武雄市の問題事例は、明日の我が身。
  • ソフトウェアや教材をどのように用意するかも考えなくては。予算を割り振るべし。
  • 広告入りソフトウェアをやむをえず導入するならば細心の注意を払ってね!(識者によるガイドラインを作って厳しく縛りましょう)
  • 逆に、広告バナー自体を教材として広告に対する知識と態度を学ばせる案はいかがでしょう
  • みんなもプログラミング勉強しようぜ!

追記

以下のような趣旨のコメントをいただきました。

  • 「武雄市はICT教育で先進的な取り組みを行っている」という認識を持っているのでは?

違います。「武雄市は、たいした準備もせずに市内全部の学校に一律ICT教育を持ち込むという失敗をやらかした自治体」だと思ってます。

そしてそれを教訓として生かすことなく他の自治体が続くことを危惧しています。

もっと言うならば、

もし本気で、タブレットを使ったICT教育を一般の学校に導入することを考えるならば、どうすれば問題が少なくなるか、武雄市の事例を反面教師にしっかりと対策を考え、できればガイドラインを作って欲しいと提言したいです(やってはダメな事例をいくらでも引き出せそうですしw)。

そもそも、自治体レベルの取り組みで生じる問題というのは、特定のエリート実験校における限定的な実験で生じる問題とは、次元が違いますよね。予算面でも、関係する人員の面でもそして、準備に必要な時間の面でも。

一部の学校(実験校、やる気があると手を挙げた学校)だけに留まらず、武雄市のように自治体内の学校生徒全員に一律でICT教育環境を与えるという試みは、まだそれほど多くはないと思います(荒川区や大阪堺市の事例くらい?他にあれば教えてください)。

今は荒川区(2014年に導入開始)がどのような状態なのか興味津々で続報を待っているところですw

追記2

ぶっちゃけ、教材開発(購入)に割り振る予算が潤沢ならバナー広告なんて検討する余地すらありません。

でも予算基盤の弱い自治体は? 教師が新しく授業を作るときに選べるソフトの選択肢は?

教材は一度作り上げただけではダメで、それをさらにブラッシュアップしていく必要がある。つまり継続的な予算措置が必要だけどそれに耐え切れる?

など考えると、「厳しいガイドラインを敷いた上で」、注意深く広告付きソフトを導入するのは、選択肢の一つとしてやむをえないかなと。

もちろん、他に良いアイデアがあるならこの広告容認案は捨て去ります。

いえ、このような妥協の産物は僕も内心では捨てたいのです。どなたかお願いします!

追記3

Twitterで、武雄市の広告導入を擁護しているのか、というご質問に対する答え。

いただいたいろいろなコメント、僕の欲しいコメント(僕は私は○番だな!みたいに意見表明していただけると大喜びします。もちろん、これ以外もぜひ)

  1. そもそもソフトは現状の予算、現状の体制で十分開発できるよ。そんな問題が存在しないんだから、代案すら考える必要はない。(議論の根底からひっくり返す派)・・・ごめんなさいとしか言えません。
  2. 代案があるから、すでに実行されているし、成果もでつつあるから。広告は必要ない。(代案はあるよ派)・・・僕が一番欲しいコメント
  3. 代案はない。しかし広告はダメです。小学生に広告とか、たとえ厳密なガイドライン決めたとしても絶対にもれはあるのだから。ダメです。許されません。(広告絶対ダメ派)・・・理解できるけど、ちょっともにょる。
  4. ソフトウェアが足りなかろうが、限られた予算だけでやるべき。広告付けて、背伸びしてまでやる必要はない。(堅実にやればいいだろう派)・・・いやたしかにそうなんだけど、ツケは全て先生に行くのですよ?
  5. ソフトウェアが足りないかどうか事例がない。武雄市は特殊すぎて問題外。だからそういう問題が発生するかどうかもわからない。そしてもし足りないとしても対策を詳細に検討する材料事例すらない。だから議論はできない。(事例ができるまで待て派)・・・いや問題が発生してから考えるって大丈夫ですか?

*1:その意見には同意しますw

*2:実際に武雄市の教育現場で苦労されている方にこれを言うとグーパンされそうですがw

*3:「うちの子(甥っ子)の小学校がタブレット授業始めるんだって!」「ヒィッ!?(恐怖のあまり涙鼻水)」

*4:教育者がコントロール可能かどうかという点で、GooglePlayを含む既存のバナー広告は検討の余地すらない。

*5:「広告を我慢して使うかどうかの選択はあなた自身に権利がある」と説明して、「この授業で使うソフトはうちらが選択できないんだけど!」という一連の流れをテンプレートとして希望。

*6:嫌儲という言葉はあいまいで誤解を招くキーワードですが、その心理に近いものがあるかもしれません。

「なぜ人を殺してはいけないのか」真摯に考えてみた

はじめに

先日、国立大学の学生が殺人容疑で逮捕されました。 高校時代のエピソードなども話題にのぼっており、その異様な内容に顔をしかめている人も多いと思います。

日常的に人を殺したいという精神状態を僕は理解できないのですが、 そもそも、なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。

法律が罰している? ダメだからダメ? 倫理的でない? 性善説? 

誰もが考え込んでしまうであろうこの問いに、僕なりに真摯に答えてみようというのが今回の内容です。

長文ですがお付き合いください。

まず結論から

人を殺してはいけない理由は、 「人を殺した人は社会から迫害され、排除され、場合によっては命を失うから」からです。

もっと端的に言うと、 「人を殺した人は、社会に生きる上であらゆる意味での不利益を被るから」です。

これが人を殺してはいけない理由の中で、もっとも直接的で簡潔な理由です。

なぜ僕がこのような結論に至ったかをできるだけわかりやすく説明しましょう。

人間は社会的な動物

まず、人間は社会的な動物であるという「事実」があります。

人は自分以外の人とモノをやり取りすることで生活を豊かにしてきました。 ここで言うモノは、食べ物や生活必需品だけでなく情報かもしれません。あるいは、信愛のような感情的なモノかもしれません。

人は自分に足りないモノを他人とやり取りすることで生活していますが、このように人と人が互いに何かをやり取りする関係のことを「社会」と呼びます。

人間という動物は、地球上の他の動物と比べて格別強いわけでも丈夫なわけでもありませんが、このような「社会」を作ることで頭数を増やし、発展し、地球上でもっとも繁栄している動物となりました。

少し大きなお話になってしまいましたので、もっと身近な話に落とし込みましょう。

あなたが豊かな生活を送ることができるのは、あなた以外の人の力を借りているからです。

たとえばあなたの目の前にあるパソコンやスマホ。これらはあなた以外の人間の手によって設計され、作られ、運送されました。あなたはその商品をお金を払って入手したはずです。

もしも人を殺しても良い社会があるならば

仮に、「人を殺してもよい社会」を想定してみましょう。 目の前にいる人をいつ殺しても問題ないという、もしもの世界です。

この世界では、対面でモノを売るお店が成り立ちません。例えばコンビニでお弁当を買うときに、お客さんが突然命を狙ってくるようでは安心して店員として働くことはできませんよね。

逆にお弁当を買ったとしても、店員があなたを殺すために毒を仕込んでいるかもしれず、そのような危険な代物を食べるわけにはいきません。

このような疑心暗鬼に陥ってしまう相手と何らかのやり取りをすることができますか? 無理ですよね。万全の防御策をとった上で注意深くやれば大丈夫? 一回一回のやり取りにそんなコストをかけた社会なんてあっという間に破綻しますよ。

つまり、理由もなく突然他人の命を狙ったりしないし危害を加えたりもしないという人間どうしでなくては「社会」を作ることはできないわけです。

これは言い換えると、相互に最低限の信頼ができる相手でないと社会を作ることができないということでもあります。

社会的動物は、社会的でない動物と相いれることができません。だってそもそも前提となる信頼関係を共有できないのですから、危険すぎて一緒に生きていくことはできません。

ですから殺人者は、社会を構成する全ての人から憎悪され、社会そのものから隔離(刑務所)され排除(追放、死刑)されます。

身近な人を殺されて復讐心を持つことはあるでしょう。しかし、一度も会ったこともない今まで名前も知らなかった人が殺されて怒りを覚えるのはなぜ? それは自らと同じ社会に属する同胞を殺されたからでしょう。自らの社会を崩壊させるような因子を排除したくなるのは当然です。

その裏返しとして、自らが同胞を殺すことをできるだけ忌避しようとします。だって自分が社会に排除されたら生きていけないですから。

でも殺人はなくならない

とはいえニュースで見るように、平和な日本であっても殺人事件は発生します。

なぜ人を殺すのか。

その大部分は人を殺すことで利益があるからです。あるいは圧倒的に不利益な状態を覆すために殺人が必要だからです。少なくとも、意図的に殺人を犯した人は計画的に/瞬間的にそう思いこみ殺人を犯しています。

一般的な日本人は、殺人を忌避する感情と殺人による利益を両天秤にかけたときに、圧倒的に忌避する方に傾きます。それこそ比較にもなりません。

しかし絶対ではありません。たとえば衰弱して判断力が鈍っていたり、自分の命に危険にせまっているなど精神的・肉体的に追い詰められたときに、一瞬だけあるいは一定期間だけその天秤が逆方向に傾いてしまう可能性があります。

でも戦争でたくさん殺したら英雄だよ?

それに対する答えは簡単です。

殺した相手が自分の属する社会と異なる社会だからです。

異なる社会間の決定的な利害対立が戦争の原因となっているならば、相手の社会の構成員を殺すことで自分の社会に利をもたらすわけですから、自分の社会から称賛されるのは当然ですよね。

逆にもし、属する社会など気にせず敵味方区別なく人を殺したら、ただの無差別殺人者として、恐れられ嫌悪され、排除されるでしょう。

ただし気を付けなくてはならないのは、人によって「自分が属する社会」の認識が異なるという点です。

大昔の例で言うならば、十字軍の時代、キリスト教圏が自分の属する社会であり異教徒圏は違う社会であるという認識が残虐な行為に走らせる理由の一つでした。

しかし情報化社会となった現代では自分の属している社会が多様化しています。日本という社会、東アジアという社会、世界という社会、地球という社会。あなたはどこに属していますか? たとえ国が違っても、世界という同じ社会に属している相手を大量に殺すことをあなたは無条件で称賛できますか? 情報が少なく個々人が認識する社会が小さかった大昔の時代とは違うのです。

そのため現代において、万人にとっての「絶対的に異なる人間社会」が存在しない以上、誰もが称賛する人殺しの英雄はありえないのです。

遠い未来に人間と全く異なる生態を持つような宇宙人と遭遇し、全ての人間が異社会とみなすような社会と戦争したならばそのような英雄が生まれるかもしれませんね。

たとえばゴキブリを虐殺しても特に非難はされないのは、ゴキブリの社会を自分の属する社会とはみなさないためですし。

相手を自分と同じ社会の構成員だと認識すること

テレビで実際に起きている戦争の一場面、たとえば攻撃ヘリが対地ミサイルを発射してトーチカを吹き飛ばすシーンを見たとしましょう。

最初はまるでゲームの一シーンのようで現実感はなく、特に感情は動かないかもしれません。

しかし、映像のスローモーションで吹き飛ぶ手足の破片らしきものが写ったら? あるいはその犠牲となった兵士たちの日常のインタビューシーンが写ったら? 彼らもまた自分と同じ家族を持ち社会を構成している事実を認識することで、相手もまた自分と同じ人間という社会に属する仲間であると認識したときに、先ほどの映像を同じ心境で見ることができるでしょうか。

これは、あなたの属する社会が広がった(多様化した)ことを意味しているのではないでしょうか。

現代社会は昔に比べて倫理的になった? いえ、とんでもない。倫理なんてごまかしやめましょう。相手についての情報を手に入れることで、あなたの社会が広がっただけなのです。

逆に言うと、たとえ現代社会であっても認識している「社会」が異様に狭い人たちがいるならば・・・。そういうことです。

例外という名の言い訳

物語の例でしか知りませんが、自分の属する社会構成員だからこそ身近で愛している人だからこそ殺したいという、社会的な動物として完全に壊れてしまった(矛盾してしまった)人は本当に存在するのでしょうか。

Fate/stay night の言峰綺礼とか。あるいは、羊たちの沈黙のレクター博士とか。

まとめ

  • 人を殺してはいけない理由は「人を殺した人は社会に生きる上であらゆる意味での不利益を被るから」
    • 人間は社会的な動物だから、社会を壊す要因は異分子として排除しようとするのが当然
  • 意図的に殺人を犯してしまった人
    • 追い詰められて、殺人による利益と不利益の天秤のはかりが普段とは反対方向に振れてしまった人
  • 殺人のハードルが一気に下がる特殊ケース。
    • 自分の社会と異なる社会を壊す(殺す)行為。自称「正義」
  • 現代において最も恐れるべきは、「社会」が狭い人かもしれない。

なお、これが絶対だとは思いません。この記事を読んだすべての人によるすべての異論を認めます。